昔、南蛮人の渡来により長崎に伝えられたガラスの製造技法が、江戸時代末期に
長州藩・萩でも始まりました。 1860年5月、中嶋治平の提唱により八丁南園(現・萩自動車学校敷地内)にガラス製造所が設置されました。また、ガラス職人である西宮留次郎(にしのみやとめじろう)を江戸から招き、留次郎の弟子で大坂の職人の長蔵(ちょうぞう)が雇い入れられ、その年の8月7日にガラスの製造を開始しました。 ガラスは玻璃・瑠璃・ギヤマン・ビードロ等と呼ばれていて、貴重品扱いされ、江戸や大坂から招いたガラス職人集団たちで見事な『切り子ガラス』の製造をしていました。当時、組織としてガラスを製造していたところは全国では長崎・大坂・美濃・江戸・薩摩・長州・福岡・佐賀の8ヵ所のみであり、萩も立派なガラスの産地の一つでした。特に、長州藩の製品は水晶石を使用していたために透明度が非常に優れており、京都の公家や朝延への献上品として特別珍重されたという記録が残っています。 長州藩の産業として順調に繁栄するかに見えた萩ガラスの終わりは突然にやってきました。1866年4月、火災により萩ガラス製造所が焼失、同年中嶋治平が病死したことで再建されることなく幕を閉じたのです。
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