萩LOVEサイト検索
山口県萩市・地域密着ポータル「萩LOVE」
 
中嶋治平と萩ガラス
萩ガラス製造所設置記録

江戸時代末期(万延元年、1860年)、南蛮人の渡来により長崎に伝えられたガラスの製造技法です。 長州藩では中嶋治平の提唱によりガラスの製造を開始しました。 ガラス製造所は八丁南園(現・萩自動車学校敷地)内に設置され、「吉田宰判江舟山から産出する水晶石を原料として使用した」と記されています。 また、硝子師は江戸や大坂からガラス職人集団が雇い入れられていました。


レトルト

当初はフラスコやビーカーなどの化学実験用の器具を製造する目的で始まったガラス製造でしたが、やがて酒器や食器などの切り子ガラスの製造が中心になりました。職人の多くが江戸から呼び寄せられた者だったため、江戸切り子の文様に影響を受けており、高い品質を誇った萩ガラスは、公家や天皇の献上品をはじめ、他藩への贈答品や交易品として珍重されるようになりました。長州藩の産業として順調に繁栄するかのように見えた萩ガラスですが、終焉(しゅうえん)は突然やってきました。 慶応2年(1866年)4月、火災により萩ガラス製造所が焼失、同年中嶋治平が病死したことで、再建されることがなく幕を閉じました。


藤田洪太郎氏と萩ガラス

萩ガラス工房社長、 藤田洪太郎氏が萩ガラスを始めたきっかけは、 二十数年前の東京で聞いた「幻の萩ガラス」の話に始まります。セラミックスの会議に出席した時、東京工大の教授が、幕末の窯業(ようぎょう)技術者について講演されていました。その時、教授が「長州萩には中嶋治平・・・耐火煉瓦(たいかれんが)・・・ガラス・・・」などといった話をし、藤田さんにとって初めて聞く話ばかりでした。また、仕事でニューヨークへ行き、コーニングガラス博物館を見学した時、「日本のガラスの歴史」という分厚い英文の報告書の中に数ページにわたって「萩ガラス」が載っており、アメリカ人が知っていて、自分が故郷のことを何も知らなかったと不勉強を恥じ、急遽それまで温められていた「幻の萩ガラス」の復元・復興をすることを決意しました。

現在の萩ガラス

内ひびガラス」に限らず、伝統技術を生かした切り子やワイングラスなどの日用品も作っています。同社の製品は国内の手作りガラスで他にはない1520度という高い温度で作っています。強度は普通のガラスの5〜10倍はあり、完成品が薄緑色のガラスであることも特徴です。 地元・笠山の石英玄武岩を使用しており、これに含まれているカリウムが多く、鉄分で薄緑色のガラスができています。 販路も東京・六本木の東京ミッドダウンでの販売を機に首都圏で伸びています。今後は中国にも売り出す方針で、藤田社長は「オンリーワンの製品として、ブランド化していく」と夢を追っています。

中嶋 中嶋治平のお墓

文政6(1823年)、長門国萩浜新町(萩市)に朝鮮通詞中嶋家に生まれました。幼少期から朝鮮語、蘭語、英語を学び蘭人医師ポンぺに師事して医学を究め、コレラ流行時には萩を救いました。また、蘭人技術者ハルデスから学んだ高炉や耐火煉瓦の研究、写真技術の導入、洋式軍艦の建造、我国で最初の蒸気機関車を運転、羊を飼育し羅紗を織り、染め物の研究に没頭しました。
一方では、高杉晋作に共鳴して苦境を救い、まさに維新の激動時に科学で未来を見据えていた萩の誇る先覚者でした。その彼が萩の地で研究した一つに「萩ガラス」があります。

ページ上部へ

萩切り子

萩切り子ガラスのルーツは江戸や大坂から職人集団招聘(しょうへい)しており「萩切り子」の系統です。当時、6・8・12・16面カットがほとんどの中で萩においては割り付け難しい10面カットが大量に出現します。このデザインは遠く北欧スウェーデンで1860年に意匠登録されており、ヨーロッパで最も流行したものです。ガラスもオランダ貿易を通して直ちに日本へも伝わり、当時、長崎に出入りし舎蜜学(化学)を習得していた長州藩通詞・中嶋治平が殖産振興のためにはガラスが必要であることに気づき、直ちに萩に持ち帰り、複製をしていったものと思われます。
10面カットの「萩切り子ガラス」は松江、横田、米子、金沢、小樽でも存在を確認しています。当時、日本海側にはガラスの生産地が無かったために、いずれも北前船のルートで各地に販売され長州藩の外貨獲得に寄与したものと思われます。

ページ上部へ

藤田洪太郎氏

1944年萩市生まれ、近畿大学理工学部を卒業。 京都でセラミックス関連の会社に勤めた後、1986年に仲間と滋賀県で日本特殊セラミックス株式会社を設立。萩に帰郷後、1992年には萩ガラス工房有限会社を設立。幕末の萩で考案された萩ガラスを復興させるとともに、オリジナルガラスの製造に取り組んでいる。

ページ上部へ

内ひび貫入ガラス

内ひび貫入ガラスを知ったのは30年近く前の、ニューセラミックを作る会社でサラリーマンとして働いていた頃です。ヨーロッパ出張で、ハンガリーにこの技術があるのを知り、研究を始めました。このガラスは熱膨張率の大きいガラスを硬質ガラスで両側からはさむ三重構造です。中心部は膨張と収縮を繰り返してひび割れを作ります。しかも、ひびは3年間増え続けるという不思議な製品です。初めは「違う素材を挟むことが分かり、すぐに作れる」と思ったが、実際にやってみると割れたり、ひびがうまく出来なかったりで、10年かかって完成しました。92年、母が亡くなり大阪から山口へ帰省し、工房を立ち上げました。萩には幕末、全国で8か所しかなかったガラス製作地の一つという歴史があります。自宅のある笠山一帯にはガラス質を大きう含む石英玄武岩があり、「幕末の萩ガラスの製作者、中嶋治平がなしえなかった高度な技術を完成させたい」と夢中で働いた結果、原石からガラスを作る手作り工房は全国で2つという貴重な存在になりました。また藤田さんが完成させた「内ひび貫入ガラス」は、国内ではほかにまねのできない高度な技術が隠されており、「どうせまねはできない!」と絶対の自信を持っています。

ページ上部へ

山口県萩市・地域密着ポータル「萩LOVE」 運営者情報プライバシーポリシーリンク集お問い合わせ 「萩LOVE」ページの先頭へ
当サイトにおける画像・文章などの無断でのご使用・転載は御遠慮ください。
(使用されたい場合にはご連絡いただければ検討いたします)

■企画・運営:ボランティアグループ「萩LOVE」
■事務局:〒758-8555 山口県萩市大字江向510 TEL 0838-25-9287 (Fax兼)