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山口県萩市・地域密着ポータル「萩LOVE」
 
1823年(文政6年) 萩市浜崎新丁に朝鮮通詞 中嶋正貞の長男として誕生する。
1856年(安政3年) 私費で長崎へ行き、蘭人ハルデス、ポンぺに師事し、英語・蘭語・理化学・治金学を学ぶ。
1858年(安政5年) 6月、コレラ予防法を長州藩に急報する。その功績により、
8月、官費伝習生となる。
1859年(安政6年) 長崎奉行所の命により綿羊の増殖・羊毛の染織法(黒染・紅染)、色抜法、羅紗織法、等の調査依頼を受け洋書を翻訳し、その実験をして結果を録上する。
7月、萩に帰国。
10月、藩主・毛利敬親に製鐡。綿羊の飼育・製茶・ガラス・陣中兵糧パン製造の必要性を建白する。吉田松陰刑死する。
1860年(万延元年) 5月、萩江向の南苑(現・萩自動車学校)内にガラス製造所を設置。
6月、鉄工局の開設と分析術の利用法について建白する。
8月、硝子製造所見合役、分析試験御用掛りを任命する。
10月、薩摩の集成館へ出張し、反射炉・水車機・ガラス等の製造所を視察。その後、長崎に渡り、小型模型蒸気機関車を購入して帰り、藩主・敬親に献上した。
この年、写真術の独語書籍を翻訳→「ホトガイラヒーの説」
1861年(文久元年) 4月、萩場内で蒸気機関車『興丸号』を運転。
5月、長井雅樂、公武合体策を上奏するため萩硝子器を献上して内諾に成功。
藩主・敬親は8月、天皇の中秋観月御宴用として、萩硝子器猪口15客、盃臺1客、鉢3客、小皿20客を進献した。
9月、軍事優先の為に舎密学の研究は硝子製造のみに縮小命令。
1862年(文久2年) 3月、殖産振興・硝子の改良研究。鉱物資源の調査・鯨油の利用・硝子火薬の研究等の必要性について建白書を提出する。
4月、山口代官所の依頼により西洋染方を紺屋数十人に教授。
1863年(文久3年) 3月、理学・舎密学の進行について藩政府に3度目の建白書を提出し舎密局の開設を嘆願する。
5月、攘夷開戦。
6月、馬関砲台報復戦。アメリカ艦に撃沈された長州藩唯一の軍艦『壬戌丸』450トンの引き上げ・浮上に成功する。この功績により、一代限りの足軽の士分階級に任じられる。
1864年(元治元年) 1月、硝子製造方・鉱属詮議御用掛りに任命される。村田蔵六・北条源蔵を伴って藩内の鉱区調査を開始する。
5月、川上村亀ヶ瀬に製鉄上設置命令が出る。
7月、蛤御門の変。
8月、四ヶ国連合艦隊下関攻撃。
11月、第一次長州征伐。
1865年(慶応元年) 4月、第二次長州征伐命令。
7月、藩命により通貨を分析して金銀分析表を所帯方に納めた。
11月、好生堂(医学所)分析場御用掛を命じられ理化学に関する一切の事務を引き受ける。
1866年(慶応2年) 1月21日、薩長連合成立。
2月8日、舎密局の設立命令が出て、その総裁に任命される。身柄一代無給通として下級武士待遇となる。
4月1日、硝子製造所全焼した。
6月、四境戦争開始。ピストル玉を改良・製造。
12月28日、萩・浜崎新丁の自宅で病死(享年44才)。
森寛斎について画も学んでおり、多才な科学者であった。
墓は浄国寺(萩市北古萩町)にある。
毛利敬親 1819〜1871
吉田松陰 1830〜1859
高杉晋作 1839〜1867
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