木戸孝允旧宅
About 木戸孝允(桂小五郎)
僕の名前は「木戸孝允(桂小五郎)」
今から僕のことについてたくさん紹介するよ!
よろしくね!
木戸孝允の活躍を一言でまとめると...
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「維新三傑」の一人で、薩摩藩と薩長同盟”を結び
明治維新に努めた人物
木戸孝允の幼少期は?
1833年6月26日、長州藩藩医の和田家の長男として誕生します。幼少期は体が弱くて、病気がちな子で本を読むことが好きだったそうです。そのため健康な子になるよう、8歳の時に武士の家である桂家の養子となりました。
幼少期のエピソード
@いたずら好きの小五郎
萩城下の松本川を行き来する船を船頭ごと転覆させて喜んでいたというかなりのいたずら者だったそうです
A吉田松陰とのエピソード
意外なことに、木戸は松下村塾の門下生ではありません。しかし、吉田松陰と全く関わりがなかったのではなく、長州藩の藩校『明倫館』で吉田松陰から山鹿流兵学を学んでいます。木戸は吉田松陰を慕っており、また、松陰先生も桂の才能を認めており、期待を寄せていました。
「今日」という書について
桂家の養子に行く前の7,8歳の頃に書いたもので、朱書きに『以っての外よろし』とほめ言葉が書かれている。
これは上出来なものしか書かれなかった言葉で、この言葉があると、城下では大評判になったそう。
「逃げの小五郎」の由来は?
木戸の剣術の腕前は神道無念流練兵館の塾頭を務めるほど、相当なものだったようですが、人前では決して刀を抜かなかったのだとか。それには塾頭神道無念流の剣術が実戦向きではなかったという説などがあります。
池田屋事件の有名エピソード
「新撰組」による尊王攘夷派弾圧が起こった池田屋事件。実は木戸も池田屋にいるはずでした。
がしかし、集合の時間を間違えて、池田屋にいなかった為、運よく難を逃れたという有名エピソードがあります。
妻、松子との出会いは?
木戸の妻、松子は元々「幾松」(いくまつ)という名で京で芸者をしていました。(売れっ子の芸者だったそう)
上記の池田屋事件の説明にある通り、多くの藩士たちが池田屋事件で新選組の襲撃を受けている中、木戸は難を逃れていました。この時手を差し伸べたのが幾松だったのです。木戸を助けたら殺されるかもしれないのに、幾松は食べ物を何度も木戸に運ぶなどを行い、手を貸していたそうです。幾松は木戸を新選組から匿って、命の危機から救いました。そんな風に危機的状況から出会い結ばれた2人。武士と芸妓で身分差がありながらも結婚を成し遂げた2人の愛は本物の愛と言えるでしょう...
維新三傑について
西郷隆盛
長州藩と薩長同盟を結んだり、旧幕府側の勝海舟と会談して江戸城無血開城したりしました。最終的に政府側と対立し西南戦争で自決したのは有名ですね。
大久保利通
長州藩と薩長同盟を結び、政治家として、「版籍奉還」や「廃藩置県」などの政策を行いました。また岩倉使節団の一員として、欧米諸国を訪問し産業や制度について学びました。