天保11年、長門国萩城下平安古の藩医良迪の次男として生まれる。藩校明倫館に入り、その後、医学を学ぶため藩校・医学所好生館に入学した。14歳で母を失くし、翌年には兄の玄機と父を相次いで失い、わずか15歳で家督を継ぐことになった。
安政3年17歳で松下村塾に入った。松陰は「防長年少第一流の人物」「天下の英才」とたたえていた。高杉とともに松下村塾の双璧とされている。お互いにライバル意識を持って成長していった。公明誠実な人柄で、人々に推され盟主となった。
早くから外患を憂い西洋の知識を取り入れようと博物堂で講習した。20才のとき再び江戸へ出て芳野金陵の門に入った。のちに下関に行き中山卿を奉じて光明寺党を組織した。(のちの奇兵隊)
元治元年6月京都に行くことに決定し、益田はじめ三家老は兵を率いて京都付近に陣をかまえた。久坂は参謀として来島、真木和泉、寺島、入江らと軍議にあずかった。
7月19日、禁門の変となり、長兵は会津や桑名、その他の親衛隊と衝突したが、圧倒的不利で多くの死傷者を出した。久坂は鷹司邸に入って論ずる所があったが、敵兵はその邸を囲み銃を乱射。久坂は脛を貫かれ歩むことができなかったため入江を招いて後を託し、寺島とともに割腹して亡くなった。 |