浜崎には、たくさん伝統的な町家が残っています。浜崎伝建地区内には伝統的建造物として指定された建築物が135棟あり、そのうち江戸の建物が約45棟。明治の建物が約40棟。大正の建物が約25棟もあります。どれも浜崎の典型的な町家です。 萩に住む人々が子供たちや訪れた人々に伝えていきたい萩の町中の歴史や文化、自然や民俗など、そこに物語をもつものを(お宝=都市遺産)と呼びます。
旧山村家住宅は、2棟の主屋、2棟の土蔵、離屋からなる江戸時代後期に建てられた大型の町家です。山村家が昭和末期まで船具店を営んでいた建物です。大変繁盛し丁稚や女中を雇い家族を含めて20人くらいが一緒に住んでいました。南側の主屋は切妻造り厨子二階建てで角を二棟並べており虫籠窓もあり1800年代前期の建築です。北側の主屋は通り土間に三室を並べ床の間のない配置であり、1800年代前期の建築です。
御船倉は藩主の御座船を格納した場所であり慶長13年(1608年)に萩城築城後、まもなく建てられたと思われます。構造は両側と奥に玄武岩で壁を築き上部に瓦屋根を葺き、前面は木製扉を有しています。大きさは桁行26.9m、梁間8.8m、高さ8.8m、石壁の厚さは6mであり現在、御船倉は一棟残っているが享保年間(1716〜1735)作成の萩城下町絵図には三棟、天保年間(1830〜1843)作の「八江萩名所図画」には4棟の船倉が描かれ明治初年に北側の一棟、昭和37年に南側の一棟が取り壊されました。
梅屋七兵衛は、造り酒屋を営む町人でありました。この建物は、梅屋七兵衛が明治時代の初めに建てたものです。建てられた当初は、現在の茶屋や水屋がある部分は土間であり、逆に現在の玄関は三畳の部屋でした。戦後は周囲に増築を繰り返し、七兵衛の子孫である山本家が代々生活を営んでいました。