高杉小忠太の長男として天保10年(1839年8月20日)に誕生。弘化3年(1846)8歳の時に寺小屋・吉末塾に入る。安政4年(1857)19歳の時、生涯の師・松陰と出会う。大橋訥庵塾、昌平坂学問所(当時の最高学府)で学ぶものの、晋作は久坂玄瑞への手紙で「江戸の学問は面白くない」と記している。文久3年(1863)年5月、萩藩は下関海峡で、攘夷の火蓋を切ったが、四国連合艦隊の攻撃をうけ、藩兵力の弱体振りをさらけ出す結果となった。この危機打開のために翌6月奇兵隊を結成し奇兵隊総督となる。慶応2年(1866)1月、桂小五郎(後の木戸孝允)らと共に、土佐藩の坂本竜馬を仲介とした薩摩藩との軍事同盟である薩長同盟を締結。肺結核のため桜山で療養し回復に努めるも、慶応3年(1867)4月14日深夜に死去。大政奉還をみずしてこの世をさることとなる(享年29)。松陰の教えを実行し、時代を駆け抜けた太く短い一生だった。