一誠の思想を探す旅へ

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なぜ松陰に最も近いのか?
     ―その理由がここにある!

理由@ 少年期に育まれた「仁政」

 一誠は武士の家に生まれた。この頃の社会は身分制度があり、武士と農民は親しくできないほど厳しかった。 だが、一誠は農民の子が遊び相手だったという。
「誰とでも分け隔てなく付き合う」
これが「仁政」であり、松陰もこの考えを基本とした。

理由A 名前に隠された松陰への誓い

 一誠の本名は佐世八十郎(させやそろう)である。では、なぜ一誠に変えたのだろうか? それは松陰が大きく関係してくる。前々から松陰を慕っていた彼は、倒幕を企てた松陰が 処刑されたことを知る。ひどく悲しみ、松陰の教えを実践しようと決意した。そこで、 松陰の座右の銘である「至誠にして動かざる者、未だこれあらざるなり」 という言葉から「一誠」にしたそうだ。

理由B 萩の乱から読み取る一誠のメッセージ

 一誠は萩の乱を起こしたことで有名である。そもそも萩の乱はなぜ起きたのか? それを読み解くにはまず、倒幕戦争までさかのぼらなければならない。
 松陰が倒幕を目指していたことを知っている一誠は、戦争に参加することになった。 九州の小倉で戦いを見事に勝利した一誠は、戦いに疲れ果てた農民の姿を目の当たりにする。 そこで戦後処理の仕事として農民の負担を減らそうと、年貢半減策を実行した。 これも、苦しい農民のことを考えた「仁政」である。
 1867年、江戸幕府はついに倒れた。だが、まだ安心はできない。新政府は 将軍の地位を奪い、領地までも奪ったのだ。これに怒りをあらわした旧幕府軍は、 新政府と戦うことを決意、また戦いが始まった。一誠は長岡(現在の新潟県)に 行くようにと命令を受け、戦いの終結に力を注いだ。その後、小倉の時と同じように 年貢半減策を行った。そして、農民から信濃川が毎年のように氾濫して困っていると聞き、 川の流れを分散させる「分水計画」を考えた。

しかし、これが新政府との関係悪化につながってしまう・・・

 もともと、年貢半減策は政府の反対を押し切って実行したものだった。 だから、次の分水計画についても一誠と新政府は対立していたのだ。 同じ松下村塾の塾生であった木戸孝允は、このまま一誠の好きにさせると 何をしでかすか分らないとし、一誠を中央政府に呼びつけた。

一誠と孝允の対立

 孝允と仲が悪くなるし、政府では自分の考えた政策を自由に実行することが できなくなった。辞職して萩に戻った際、新政府に不満を持つ旧士族に押されて 萩の乱をおこした。
 つまり、新政府によって地位も特権も失った旧士族や、生活の苦しい農民のことを もっと考えろと、政府に伝えるための乱であったのだろう。

現代に伝わる一誠の思い

 3つの理由を挙げたが、どれも松陰に一歩でも近づこうとした行動であるように感じる。 一誠は、自分が松陰になりたいほど松陰を慕っていた。 仁政を貫いた彼の思想は、現代の世の中にも必要なことなのだろう。
 以上のことから、前原一誠は吉田松陰に最も近い人物と言えるだろう。

最後に

処刑された一誠が眠る墓が萩市内に存在する。もう一人の松陰に会いたい方は、 弘法寺に足を運ぶことをお勧めする。

弘法寺の説明

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