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享和3年(1803)周防国大島郡和田村(現在の周防大島町)の医師青木玄棟の家に長男
として生まれる。 萩藩医能美洞庵に入門し漢方医学を学んび、江戸でオランダ医学を学
んだ後、長崎に遊学しシーボルトに 師事した。 一時、長崎で開業するも天保9年(1838)に
評判を聞きつけた萩藩主毛利敬親)、医学館の
創設により教官 に任命された。早くから種痘法に注目し、弟・研蔵を長崎に遣わし研究
させ、藩内でこれを施し大いに功を 奏した。高杉晋作が10歳のとき疱瘡にかかった際、
診療した医者としても知られる。 医学書の翻訳等、医学教育に尽力し、多くの子弟を
育てるとともに西洋兵学を紹介した。文久3(1863)年、 61歳でこの世を去る。 |
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周弼の実弟で、後に青木家を継ぐ。 兄とともに能美洞庵に
師事し、藩の命により長崎では
シーボルト等 にも学び、最
新の医学を萩に伝えた。種痘の技術を初めて藩にもち かえり、その結果、長州藩はいち早く
天然痘を予防することに成功した。 藩主毛利敬親の側医をつとめ、明治2年(1869)に
明治天皇の大典医 に任命された。明治3(1870)年、56歳でこの世を去る。 |
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| 厚狭郡埴生村(現在の山陽小野田市)の医者の家に生まれる。 藩校明倫館で才能を
見いだされ研蔵の養子となる。この際に 2人の名を取り「周蔵」と改名した。 長崎で医学を学んだ後、明治元年(1868)にドイツに
留学し、 政治、経済を学ぶ。明治6年(1873)外務一等書記官を振出しに、
翌年最初
の駐独公使となる。明治10年(1877)にドイツ貴族の 令嬢エリザベートと結婚した。山形有朋、松方正義両内
閣では 外務大臣として条約改正にあたった。
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↑ 妻 エリザベート |
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