文政6年(1823年)、萩市浜崎新丁に朝鮮通詞※1の中嶋正貞の長男として誕生する。
中島は、朝鮮通詞の父から朝鮮語や漢学などを、画家の森寛斎(もり
かんさい)※2から絵を学んだ多才な人でした。
黒船来航後、長崎へ行き、長崎海軍伝習所のオランダ人医師であるポンぺや
長崎製鉄所の技師のハルデスに師事し、化学や蒸気機関学、製鉄などを学び、
帰藩後は藩に鉄工局の開設を建白。
1860(万延元)年、萩藩のガラス製造所見合役となり、
1863(文久3)年には、攘夷戦で関門海峡に沈んだ
「壬戊丸(じんじゅつまる)」※3の引き揚げに成功します。
翌年、製鉄所が設立され、その設立は、
建白していた鉄工局の構想の一部が実ったものといえるかもしれません。
1866(慶応2)年、やはり建白を重ねていた念願の舎密(せいみ)※4局が設立されながら、
同年12月、中島は夢半ばの44歳で病死します。
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