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萩ガラスの生産が始まったのは、幕末の万延元年(1860年)8月7日。

当時の製造技術は、長州藩の朝鮮通詞の家に生まれ、34歳の時に長崎で化学を学んだ中嶋治平(なかじま じへい) によって、広められた。

ガラス製造の目的は、治平が長崎で修得した化学知識を生かして、 火薬、医薬品などを研究、製造するために長州藩が開設した舎密局で使うフラスコやビーカーを作ることだった。

治平は、維新の夢を見つつ、当時の最先端の技術である蒸気機関を使用してガラス産業の振興に努めた。 そして、萩城下町にガラス製造所を設置した。

萩ガラスは、旧大野毛利家でたくさんのガラスが発掘され、また、萩城外堀発掘現場で謎 のガラスがでてきた。

↑中嶋治平の生家
(萩市浜崎町)
↑中嶋治平の墓
(萩市北古萩町浄国寺)

文政6年(1823年)、萩市浜崎新丁に朝鮮通詞※1の中嶋正貞の長男として誕生する。

中島は、朝鮮通詞の父から朝鮮語や漢学などを、画家の森寛斎(もり かんさい)※2から絵を学んだ多才な人でした。

黒船来航後、長崎へ行き、長崎海軍伝習所のオランダ人医師であるポンぺや 長崎製鉄所の技師のハルデスに師事し、化学や蒸気機関学、製鉄などを学び、 帰藩後は藩に鉄工局の開設を建白。

1860(万延元)年、萩藩のガラス製造所見合役となり、 1863(文久3)年には、攘夷戦で関門海峡に沈んだ 「壬戊丸(じんじゅつまる)」※3の引き揚げに成功します。

翌年、製鉄所が設立され、その設立は、 建白していた鉄工局の構想の一部が実ったものといえるかもしれません。

1866(慶応2)年、やはり建白を重ねていた念願の舎密(せいみ)※4局が設立されながら、 同年12月、中島は夢半ばの44歳で病死します。

※1萩藩に仕えた朝鮮語の通訳。漂流民の救助・送還に当たった。
※2萩藩出身。京都画壇の中心的な存在となった。
※3イギリスの商人から購入した鉄製蒸気船。
※4化学のこと。
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