高杉晋作について
御誕生
生まれは、中級萩藩士(大組 200石)高杉小忠太春樹の長男として誕生。
元服して春風 通称晋作で通る(1839年天保10年 8月20日)
金毘羅社参詣
幼少の時から、もの恐れしないようにする為近所の金毘羅社に連れていかれ、大きい天狗の面を見せられ、気丈夫にされた。(香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮を総本宮とし、その主祭神である大物主神を祀る神社であり、日本全国に存在する。「神社」ではなく「宮」と称するものもある。)
松下村塾入門
吉田松陰先生の門下生となりやがて、久坂玄随と共に、松下村塾の双璧と称されるようになった(1857年 安政四年 19歳)
小姓役となる
若殿毛利定広の小姓を命じられ、のち大いに才識を認められるようになった。
*小姓には配膳役 小納戸役 御判役 添肩衣役 御櫛役がある。(1861年 文久元年 三月 23歳)
剃髪
さんざん思いならず、感ずるところありて髪をそり世捨て坊主となる
西行法師にちなみ、東行と号した。
(1863年 文久三年 3月15日 25歳)
騎兵隊結成
隠棲生活中、藩主から山口の政事堂に呼び出され、馬関攘夷戦での馬関(下関)防衛を一任され、士農工商を問わない志のあるものを慕って隊を組織し、正規軍に対して騎兵隊と名付けた。(1863年 文久3年 6月16日 25歳)
入獄
判の規則を犯して自由行動をとったことをとがめられ京都から召し返され、脱藩罪により萩の野山獄に入れられた。(1864年 元治元年 3月29日 26歳)
止戦講和
家居謹慎中山口の政事堂へ呼び出されそのあと馬関攘夷戦(英仏蘭米17隻との闘い)中止のため藩の代表(毛利の家老宍戸刑馬と偽り)として英国公使と船上にて談判して有利な和議を盗んだ。(1864年 元治元年 8月4日 26歳)
亡命
藩内の幕府恭順派による尊王攘夷派に対する粛清で生命の危機を感じて福岡に逃れ勤王歌人野村望東尼の平尾山荘に潜伏して時機を待つ(1864年 治元年 11月2日 26歳)
死亡
四境戦争(幕長戦争)おわり頃結核が重くなり下関で療養するが、甲斐なく病没する。
墓は、下関吉田町清水山(東行庵)(1867年 慶応三年 4月14日没 27歳八か月 享年29歳)
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