萩反射炉について
反射炉の構造図
世界遺産「明治日本の産業革命遺産」は、19世紀後半から20世紀初頭にかけ、西洋の技術が日本に移転され、急速な産業化を成し遂げたことを証言する産業遺産群です。岩手県から鹿児島県まで8県11市に広がる23資産で構成されています。
萩反射炉は、萩藩が海防強化の一環として、鉄製大砲を鋳造するために、1856(安政3)年に試作的に築造した金属溶解炉です。
しかし、技術的にも費用的にも難しいことから、萩藩は本式の反射炉の築造は断念しました。なので萩反射炉では鉄を製造しておらず、実際に鉄を製造していたのは、郡司鋳造所という場所です。
萩反射炉は幕末に、萩藩が自力で産業の近代化を目指す中での、トライアル&エラー(試行錯誤)を証明する貴重な遺産です。
郡司鋳造所について
松下村塾の北側にある、萩藩のお抱えの鋳物師だった郡司家の鋳物工房の遺構を移築復元整備した広場です。
郡司家は、鍋・梵鐘のほか大砲などの兵器の鋳造を営んでいました。
嘉永6年(1853)のペリー来航をきっかけとして幕府が公布した「洋式砲術令」によって、同年11月、萩藩は郡司鋳造所を藩営の大砲郡司鋳造所に指定し、大量の青銅製大砲を鋳造した。ここで鋳造された大砲は、江戸湾防備のため三浦半島に設けられました。
萩藩の陣屋に運ばれ、また文久3年(1863)、下関海峡での外国船砲撃、元治元年(1864)、同海峡での英・仏・蘭・米連合艦隊の戦争(下関戦争)にも使用されました。
郡司鋳造所は、在来技術である「こしき炉」によって西洋式大砲を鋳造しており、近代技術へと移行する過渡期を物語る産業遺構として貴重なものです。
なかでも、西洋式の青銅大砲を鋳造し、一番深いところで4.5mある石組大砲鋳造遺構は日本一です