5歳の時、叔父の吉田大助の養子となるが、大助が29歳で亡くなり、6歳であとを継ぎます。猛勉強をして11才のとき、藩主の前で講義をして見事才能が認められました。
野山獄でも猛勉強をし、安政4年に“日本を背負ってたつような人を育てたい”という思いから、松下村塾を主宰し、約90人もの弟子を教育しました。安政5年(1858年)、幕府が天皇の許可なく日米修好通商条約を結ぶと、激しく非難、老中の間部詮勝の暗殺を計画し、警戒した藩によって投獄されます。安政6年(1859年)、自供して自らの思想を語り、斬首刑に処されました。 |