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歴史
偉大なる 中嶋治平
彼は幼少のころから朝鮮語、蘭語、英語を修め蘭人医師ポンペに師事して医学を究めコレラ流行時には萩を救い、また蘭人技術者ハルデスから学んだ鉄生産のための高炉や耐火煉瓦を研究し、写真技術の導入を計り、洋式軍艦を建造し、我国で最初に蒸気機関車を運転し、羊を飼育して羅紗を織り染め物の研究に没頭した。

(西洋) 5000年の歴史、フェニキュアで発生? 人類の歴史とともに発達
(日本) 弥生時代のガラス→シルクロード→正倉院→(空白の時代)→1573年ポルトガルから長崎へ伝来(ビードロ)
(萩) 1860年(万延元年)に始まる、萩八丁南園、中嶋治平

長州藩では幕末の万延元年(1860年)8月7日からガラスの製造を開始している。

製造所は八丁南園(現・萩自動車学校敷地)内に設置され、 「吉田宰判江舟山から産出する水晶石を原料として使用した」と古文書に記されている。

維新の原動力長州藩士吉田松陰、 高杉晋作、木戸孝允を知る人は あっても長州藩科学者、中嶋治平を知る人は少ない。

彼は萩を救い、また蘭人技術者ハルデスから学んだ鉄生産のための 高炉や耐火煉瓦を研究し、写真技術の導入を計り、洋式軍艦を建造した。


治平が賭けるその思いの結晶が、この「萩ガラス」である。

また晋作に共鳴して苦境を救い、まさに維新の激動時に科学で未来を見据えていた萩の誇る先覚者であった。
その彼が萩の地で研究した一つに萩ガラスがある。

維新の夢を見つつ、当時の最先端の技術である蒸気機関を 使用してガラス産業の振興に努めた治平、彼の夢も攘夷開戦、 蛤御門の変、長州征伐と続く激動の世にわずか数年で消え、 その後永く萩ガラスは忘れられていた。

今145年を経て、古文書を紐解き、残された治平遺品を 手掛かりに打ち捨てられた笠山産の石英玄武岩を 最先端の技術と感性で鋳る。

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